2008年03月17日
ひきこもりの若者と生きる
「ひきこもりの若者と生きる」という本を、ほぼ読み終わりました。
この本を読んで、若者たちの自立を支援するビバハウスや、それを取り巻く支援してくれるみなさんの心に打たれました。本当に、若者たちのために、頭と心と体をふるに使って働いている様子が良く分かりました。
この本の中に、書かれていた、引きこもりの若者たちが幸せな人たちを見ると、みんな落ち込んでしまったという場面がありました。(少し前に触れていますが) ここを読み、さらに考えてみて、引きこもる若者たちの多くに共通していると思えるのは、「落ちこぼれ感」なのではないかなと思いました。以前、思ったのは、失敗を恐れることが引きこもりの大きな原因になっていると思っていました。ですが、それが最大の原因ではないなとも思っていたのですが、一番大きな原因は、「落ちこぼれ感」のように感じました。
あるがままの自分を認めるというのは、かなり難しいことだと思います。世の中には、「他の人は関係ない、自分はこうだ」という人もいますが、まじめな人ほど、自分が劣っている部分に目がいってしまうんですね。でも、これは「常に上昇、成長し続けなければならない」という価値観に支配されている面もあるように思います。高度成長期に生まれ育ってきた人は、親の世代が「欧米に追いつけ追い越せ」の精神で、裕福になり、それが成功の証でしたから、「成長指向こそが人間の生き方だ」という価値観を持っているのでしょう。子どもたちは、それに縛られて、付いていけないことで、苦しんでいるのかも知れません。これらのことを考えると、引きこもりやニートは、決して本人や親だけの問題ではなく、社会全体の問題なんだと思います。
こんなふうに書くと、簡単に結論に達したように見えますが、社会全体の問題をどのようにとらえるのか、どのように細分化していくのか、どのように良くしていくのか、答えはなかなか出ません。というより、これはという答えは見つかる訳はないのです。
私は、障害の有無や年齢に関わらず「共に楽しむ」ことが大切なことであり、「共に生きる」につながることだと思っています。単なる登山ですが、なぜ共に楽しむことができるのか、どうしたら共に楽しむことができるのか、楽しんでいるように見えて本当に楽しんでいるのだろうか、などなど共に楽しむということだけを取り上げても、答えなどない無限の深さがあるのですね。にぎやかに話している時、誰かが「話をしている場合じゃないだろう」と怒鳴ったら、それで楽しさは吹っ飛びます。そうならないようにどうしたらよいのか、安全を第一にして、楽しさを追求する。簡単なようで、すごく難しいことですね。「共に楽しむ」という一つのことを考えただけで、無限の深さがあるのですから、生きるということは無限の深さを持っているということですね。結論を求める気持ちを持ちながら、とにかく行動を続けることが必要です。
この本を読んで、若者たちの自立を支援するビバハウスや、それを取り巻く支援してくれるみなさんの心に打たれました。本当に、若者たちのために、頭と心と体をふるに使って働いている様子が良く分かりました。
この本の中に、書かれていた、引きこもりの若者たちが幸せな人たちを見ると、みんな落ち込んでしまったという場面がありました。(少し前に触れていますが) ここを読み、さらに考えてみて、引きこもる若者たちの多くに共通していると思えるのは、「落ちこぼれ感」なのではないかなと思いました。以前、思ったのは、失敗を恐れることが引きこもりの大きな原因になっていると思っていました。ですが、それが最大の原因ではないなとも思っていたのですが、一番大きな原因は、「落ちこぼれ感」のように感じました。
あるがままの自分を認めるというのは、かなり難しいことだと思います。世の中には、「他の人は関係ない、自分はこうだ」という人もいますが、まじめな人ほど、自分が劣っている部分に目がいってしまうんですね。でも、これは「常に上昇、成長し続けなければならない」という価値観に支配されている面もあるように思います。高度成長期に生まれ育ってきた人は、親の世代が「欧米に追いつけ追い越せ」の精神で、裕福になり、それが成功の証でしたから、「成長指向こそが人間の生き方だ」という価値観を持っているのでしょう。子どもたちは、それに縛られて、付いていけないことで、苦しんでいるのかも知れません。これらのことを考えると、引きこもりやニートは、決して本人や親だけの問題ではなく、社会全体の問題なんだと思います。
こんなふうに書くと、簡単に結論に達したように見えますが、社会全体の問題をどのようにとらえるのか、どのように細分化していくのか、どのように良くしていくのか、答えはなかなか出ません。というより、これはという答えは見つかる訳はないのです。
私は、障害の有無や年齢に関わらず「共に楽しむ」ことが大切なことであり、「共に生きる」につながることだと思っています。単なる登山ですが、なぜ共に楽しむことができるのか、どうしたら共に楽しむことができるのか、楽しんでいるように見えて本当に楽しんでいるのだろうか、などなど共に楽しむということだけを取り上げても、答えなどない無限の深さがあるのですね。にぎやかに話している時、誰かが「話をしている場合じゃないだろう」と怒鳴ったら、それで楽しさは吹っ飛びます。そうならないようにどうしたらよいのか、安全を第一にして、楽しさを追求する。簡単なようで、すごく難しいことですね。「共に楽しむ」という一つのことを考えただけで、無限の深さがあるのですから、生きるということは無限の深さを持っているということですね。結論を求める気持ちを持ちながら、とにかく行動を続けることが必要です。