2008年06月04日
人生の目的
最近、ある一人の引きこもることで苦しんでいる青年のことを考えていたら、ふっと「人生の目的」とは何かということに気づきました。その青年に心から感謝しています。
「人生の目的」とは、たった一つですね。それは「生きる」ということ。それだけだと思います。「生きる」ために生理的な必要条件があり、心の面が十分条件として必要になると思いますが、「生きる」ことが本質的な目的なのだと思います。
現代社会のほとんどの人たちが、働くことが重要だと思っていると思いますし、確かに間違いなく大切なことなのです。しかし、「働くこと」は、「生きる」ための一つの手段ということであって、決して目的ではありません。「生きる」ための手段は、無限にあるのです。食っちゃ寝をしていても生きられますし、親のスネを囓っても生きられるのです。
そんな「生きる」ための手段の一つとして、「引きこもり」もあって良いのです。「引きこもり」も生きるための大切な手段なのです。引きこもることを否定してはいけません。社会に出れば、人の気持ちなど分かってくれず、自分の価値観を押しつける人は大勢います。失敗を許してくれなかったり、挨拶ができないからと白い目で見られたり、変わり者だと仲間はずれにされたり、とにかく怖い部分がたくさんあります。そんな怖い社会に出たら、自分自身がつぶれてしまうと感じたら、引きこもることで我が身を守ろうとするのは、当然のことなのです。自分の身を守るためには、引きこもる以外にないのです。
現代は、子どもたちや若者たちにとって、非常に住みにくい社会です。昼夜の別なくコンビニが営業していますし、さまざまな店も夜遅くまで営業し、休日も少なくなってしまいました。とにかく利益を増やして、成長を続けなければ、生き残っていけないと、心をすり減らし、がんばり続けなければなりません。
身近なところには、緑や自然が極端に少なくなり、コンクリートなどの人工物で被われた街、人との関わりを学ばせてもらえないテレビゲームなど、金儲けや物質的なものばかり求める大人たちの犠牲となって、子どもたちは生きなければならないのです。
そんな問題点の一つに、高学歴ばかりを求める現代社会の病理もあります。昔は、例えば大工さんの家に生まれたら「大学に行って大工の仕事ができるか」と言われるのが一般的であり、農家も漁師もみんなそうだったのです。勉強などしなくても、十分に生きていくことができ、人生を楽しめたのです。
高校や大学に行って学ぶことは、ほとんど全てが抽象概念です。抽象概念を学ぶことによって、さまざまな分野に応用が利くようになり、合理化を進めたり社会の発展に尽くすことができますから、それはそれで大切なことなのですが、人によっては、抽象化が苦手で、目の前に現実としてあるものでないと判断がしづらいという人も大勢います。過去には、そのような人たちが、職人芸を発揮して、すばらしいものを作り出してきたのですが、今の社会は大学に進むことだけを価値あるものとして、職人さんが生きづらい社会にしてしまっています。
それらのことが、大きなひずみとなって現代社会に影を落とすようになっているように思います。いじめも凶悪犯罪も、引きこもりや不登校も、根底にはそのような社会の問題があると思います。
そんな中で私は、引きこもりの人や人と関わることが苦手な人には、家庭菜園などで野菜作りをはじめることをお勧めしたいと思っています。植物は、自分が手をかけたら、そのままの答えを出してくれますし、失敗しても責めたりはしません。一日中、一言も話をしなくても問題ありませんし、気を使うことも必要ありません。土の温もりも感じられるし、訪れてくる野鳥や昆虫も仲間に感じられます。自分が育てた野菜が実ったら、どんなにうれしいことでしょうか。いつか、自信にも結びついてくるのではないかと思います。
私は登山をしていますが、人は自然から離れて生きることができないことをいつも実感しています。いつも黙って受け入れてくれる自然は、無限の包容力を持っているんですね。引きこもることも、「ああ良いよ」と黙って受け入れてくれます。
「人生の目的」とは、たった一つですね。それは「生きる」ということ。それだけだと思います。「生きる」ために生理的な必要条件があり、心の面が十分条件として必要になると思いますが、「生きる」ことが本質的な目的なのだと思います。
現代社会のほとんどの人たちが、働くことが重要だと思っていると思いますし、確かに間違いなく大切なことなのです。しかし、「働くこと」は、「生きる」ための一つの手段ということであって、決して目的ではありません。「生きる」ための手段は、無限にあるのです。食っちゃ寝をしていても生きられますし、親のスネを囓っても生きられるのです。
そんな「生きる」ための手段の一つとして、「引きこもり」もあって良いのです。「引きこもり」も生きるための大切な手段なのです。引きこもることを否定してはいけません。社会に出れば、人の気持ちなど分かってくれず、自分の価値観を押しつける人は大勢います。失敗を許してくれなかったり、挨拶ができないからと白い目で見られたり、変わり者だと仲間はずれにされたり、とにかく怖い部分がたくさんあります。そんな怖い社会に出たら、自分自身がつぶれてしまうと感じたら、引きこもることで我が身を守ろうとするのは、当然のことなのです。自分の身を守るためには、引きこもる以外にないのです。
現代は、子どもたちや若者たちにとって、非常に住みにくい社会です。昼夜の別なくコンビニが営業していますし、さまざまな店も夜遅くまで営業し、休日も少なくなってしまいました。とにかく利益を増やして、成長を続けなければ、生き残っていけないと、心をすり減らし、がんばり続けなければなりません。
身近なところには、緑や自然が極端に少なくなり、コンクリートなどの人工物で被われた街、人との関わりを学ばせてもらえないテレビゲームなど、金儲けや物質的なものばかり求める大人たちの犠牲となって、子どもたちは生きなければならないのです。
そんな問題点の一つに、高学歴ばかりを求める現代社会の病理もあります。昔は、例えば大工さんの家に生まれたら「大学に行って大工の仕事ができるか」と言われるのが一般的であり、農家も漁師もみんなそうだったのです。勉強などしなくても、十分に生きていくことができ、人生を楽しめたのです。
高校や大学に行って学ぶことは、ほとんど全てが抽象概念です。抽象概念を学ぶことによって、さまざまな分野に応用が利くようになり、合理化を進めたり社会の発展に尽くすことができますから、それはそれで大切なことなのですが、人によっては、抽象化が苦手で、目の前に現実としてあるものでないと判断がしづらいという人も大勢います。過去には、そのような人たちが、職人芸を発揮して、すばらしいものを作り出してきたのですが、今の社会は大学に進むことだけを価値あるものとして、職人さんが生きづらい社会にしてしまっています。
それらのことが、大きなひずみとなって現代社会に影を落とすようになっているように思います。いじめも凶悪犯罪も、引きこもりや不登校も、根底にはそのような社会の問題があると思います。
そんな中で私は、引きこもりの人や人と関わることが苦手な人には、家庭菜園などで野菜作りをはじめることをお勧めしたいと思っています。植物は、自分が手をかけたら、そのままの答えを出してくれますし、失敗しても責めたりはしません。一日中、一言も話をしなくても問題ありませんし、気を使うことも必要ありません。土の温もりも感じられるし、訪れてくる野鳥や昆虫も仲間に感じられます。自分が育てた野菜が実ったら、どんなにうれしいことでしょうか。いつか、自信にも結びついてくるのではないかと思います。
私は登山をしていますが、人は自然から離れて生きることができないことをいつも実感しています。いつも黙って受け入れてくれる自然は、無限の包容力を持っているんですね。引きこもることも、「ああ良いよ」と黙って受け入れてくれます。
Posted by アルプ at 09:07│Comments(0)
│心の話し
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