2008年07月02日
子どもが正しいことも多い
先日、大学で話をさせていただいたのですが、その時の学生さんの感想をある方に読んでいただいたところ、「共感した」とか「新鮮だった」という内容が多かったからだと思いますが、何を話したらこういう感想が引き出せるのかと驚いていました。
私が話したのは、「障害者の心理」、「ボランティアの心理」、「障害とは何か」、「感謝の心とは何か」、「思いやりの心とは何か」、「相手の気持ちになって考えるとは何か」、「自然から何を学べるか」、「現代社会に生きる子どもたちが抱えるいじめや引きこもり、不登校、犯罪などに共通する原因は何か」などなのですが、これらの話のほとんどは、どんな教科書にもなくて、実際の体験と、それをもとに考え続けた結果なので、学生さんには新鮮に感じられたようです。
私はいつまでも歳を取らない頭の構造なのかも知れませんが、建前を飾ったり、鎧を着たりすることが苦手で、いつも思ったことをずばずば言っている人間です。また、単なる呑ん兵の大ばか三太郎ですから、他の人も遠慮なく、私には何でもずばずば言ってくれていたのだと思います。そんなことから、いろんな人の本音に接してきたことが、私の特性かも知れませんね。
一つの親子の例ですが、お母さんが子どもが喜ぶと思って美味しい料理を作っていました。子どもはそれを淡々と食べて、自分の部屋に戻ろうとします。お母さんは、自分が丹誠込めて作った料理を美味しいとも何とも言わずに部屋に戻る子どもを掴まえて、「あなた、今日の料理は美味しかったの?」と聞きます。子どもは「あー」とだけ言って部屋に行こうとします。お母さんは、「何なのその言い方は、全然美味しそうじゃないじゃないの。あなたは感謝の気持ちが足りないのね」と、むっとします。子どもは、「無理矢理感謝しろなんて、押しつけるのはおかしいじゃないか」と反論します。お母さんは、「感謝の気持ちは、自然と湧き上がってくるものなの。あなたは感謝の気持ちがないから、私が言うまで何も言わなかったじゃないの」とだんだん怒りが込み上げてきます。子どもも、怒られてしまったので、感情的になり、「感謝しろなんて押しつけるテメーが間違っているんだよ。クソババ」という喧嘩状態になって、子どもは自分の部屋に閉じこもってしまいました。
さて、みなさんなら、子どもと母親とどちらが正しいと思いますか。
な~んて、正しいか間違いかなんて誰にも分からないし、決められないですね。心情的には、お母さんの気持ちはとても良く分かります。でも、この場合、「感謝の気持ちは何か」という問の答に近いのは、子どもの方ではないでしょうか?
感謝して欲しいというお母さんの気持ちはとても良く分かるのですが、感謝というものは決して要求して引き出すようなものではありません。ですから、要求されたら、その瞬間に感謝の気持ちは薄っぺらになってしまうのです。
お母さんが、「今日の料理はおいしかったかい?」と聞いた時、子どもが「あー」と言っただけでも、お母さんが「そうかい、ありがとう」と言ったら、子どもは自分の部屋に帰って、「今日はお母さんは、一生懸命料理を作ってくれたのかな? 毎日献立を考えて作るなんて、大変だな」と思い、心の中で「ありがとう」と言っていたかも知れません。
感謝の気持ちというのは、表に出すかどうかの問題ではなく、心の中に「うれしいな、ありがたいな」という気持ちが湧き上がることなのです。そういう気持ちに心が満たされれば、自然に「ありがとう」という言葉も出てくるようになります。若い時は、照れもありますから、「ありがとう」という言葉はそう簡単には出しません。(特に男は)親は、そのことを理解してあげる必要があるのですね。
上の例のように、子どもが「あー」という素っ気ない言い方でも、親の側が「ありがとう」と返してあげると、子どもの心の中には、きっと大きな感謝の気持ちが湧き上がるはずです。
感謝の気持ちが湧き上がると、自然に親のことを思いやる気持ちも湧き上がるのです。感謝の気持ちと思いやりの気持ちは、決して別のものではなくて、同じ一つの気持ちなのです。それを別の方向から見ているだけなのです。
何かを相手にしてあげる、その時、じつは相手からはしてあげたことと同じか、それ以上のものを同時にもらっているのです。相手から学ぼうという気持ちがあれば、してあげた時の相手の反応や相手の生き方などから、学べることは無数にあるのです。そのことに気づき、学ばせてもらっていることが分かれば、自然に感謝の気持ちが湧いてきます。相手への思いやりの気持ちと同時に、相手から学ばせてもらえる感謝の気持ちが湧き上がってくるのです。
学生さんたちには、事例は話さなかったのですが、そんなことを話してきました。
写真も1枚、掲載しました。これは、今週の日曜日に行った入笠山で撮影したクリンソウです。スズランが満開で、クリンソウやレンゲツツジも楽しめました。雨でしたが、あんなにたくさんのスズランを見たのは初めてです。
私が話したのは、「障害者の心理」、「ボランティアの心理」、「障害とは何か」、「感謝の心とは何か」、「思いやりの心とは何か」、「相手の気持ちになって考えるとは何か」、「自然から何を学べるか」、「現代社会に生きる子どもたちが抱えるいじめや引きこもり、不登校、犯罪などに共通する原因は何か」などなのですが、これらの話のほとんどは、どんな教科書にもなくて、実際の体験と、それをもとに考え続けた結果なので、学生さんには新鮮に感じられたようです。
私はいつまでも歳を取らない頭の構造なのかも知れませんが、建前を飾ったり、鎧を着たりすることが苦手で、いつも思ったことをずばずば言っている人間です。また、単なる呑ん兵の大ばか三太郎ですから、他の人も遠慮なく、私には何でもずばずば言ってくれていたのだと思います。そんなことから、いろんな人の本音に接してきたことが、私の特性かも知れませんね。
一つの親子の例ですが、お母さんが子どもが喜ぶと思って美味しい料理を作っていました。子どもはそれを淡々と食べて、自分の部屋に戻ろうとします。お母さんは、自分が丹誠込めて作った料理を美味しいとも何とも言わずに部屋に戻る子どもを掴まえて、「あなた、今日の料理は美味しかったの?」と聞きます。子どもは「あー」とだけ言って部屋に行こうとします。お母さんは、「何なのその言い方は、全然美味しそうじゃないじゃないの。あなたは感謝の気持ちが足りないのね」と、むっとします。子どもは、「無理矢理感謝しろなんて、押しつけるのはおかしいじゃないか」と反論します。お母さんは、「感謝の気持ちは、自然と湧き上がってくるものなの。あなたは感謝の気持ちがないから、私が言うまで何も言わなかったじゃないの」とだんだん怒りが込み上げてきます。子どもも、怒られてしまったので、感情的になり、「感謝しろなんて押しつけるテメーが間違っているんだよ。クソババ」という喧嘩状態になって、子どもは自分の部屋に閉じこもってしまいました。
さて、みなさんなら、子どもと母親とどちらが正しいと思いますか。
な~んて、正しいか間違いかなんて誰にも分からないし、決められないですね。心情的には、お母さんの気持ちはとても良く分かります。でも、この場合、「感謝の気持ちは何か」という問の答に近いのは、子どもの方ではないでしょうか?
感謝して欲しいというお母さんの気持ちはとても良く分かるのですが、感謝というものは決して要求して引き出すようなものではありません。ですから、要求されたら、その瞬間に感謝の気持ちは薄っぺらになってしまうのです。
お母さんが、「今日の料理はおいしかったかい?」と聞いた時、子どもが「あー」と言っただけでも、お母さんが「そうかい、ありがとう」と言ったら、子どもは自分の部屋に帰って、「今日はお母さんは、一生懸命料理を作ってくれたのかな? 毎日献立を考えて作るなんて、大変だな」と思い、心の中で「ありがとう」と言っていたかも知れません。
感謝の気持ちというのは、表に出すかどうかの問題ではなく、心の中に「うれしいな、ありがたいな」という気持ちが湧き上がることなのです。そういう気持ちに心が満たされれば、自然に「ありがとう」という言葉も出てくるようになります。若い時は、照れもありますから、「ありがとう」という言葉はそう簡単には出しません。(特に男は)親は、そのことを理解してあげる必要があるのですね。
上の例のように、子どもが「あー」という素っ気ない言い方でも、親の側が「ありがとう」と返してあげると、子どもの心の中には、きっと大きな感謝の気持ちが湧き上がるはずです。
感謝の気持ちが湧き上がると、自然に親のことを思いやる気持ちも湧き上がるのです。感謝の気持ちと思いやりの気持ちは、決して別のものではなくて、同じ一つの気持ちなのです。それを別の方向から見ているだけなのです。
何かを相手にしてあげる、その時、じつは相手からはしてあげたことと同じか、それ以上のものを同時にもらっているのです。相手から学ぼうという気持ちがあれば、してあげた時の相手の反応や相手の生き方などから、学べることは無数にあるのです。そのことに気づき、学ばせてもらっていることが分かれば、自然に感謝の気持ちが湧いてきます。相手への思いやりの気持ちと同時に、相手から学ばせてもらえる感謝の気持ちが湧き上がってくるのです。
学生さんたちには、事例は話さなかったのですが、そんなことを話してきました。

写真も1枚、掲載しました。これは、今週の日曜日に行った入笠山で撮影したクリンソウです。スズランが満開で、クリンソウやレンゲツツジも楽しめました。雨でしたが、あんなにたくさんのスズランを見たのは初めてです。