2008年03月14日
障害とは何でしょうか?
障害とは何でしょうか?
障害者という文字の中に含まれる「害」という字が害虫と同じ意味だということで、障碍者とか障がい者という言い方が、少しずつ広がってきているように思います。
しかし、そのように言葉を問題視している人たちのうち、どれだけの方が「障害とは何か」というような自問をしてしているでしょうか? 私には、疑問に感じます。
「障害者」という言葉や定義は、障害者基本法で定義されているとおり、法律で定めた障害を持つ人です。ですから、中には、障害者として認定して欲しくても、認定してもらえない人たちもいます。難病の人たちの中には、まさにそれで苦しんでいる方もいるそうです。
私自身は、言葉については、法律での使用が変わったら、それに従おうと思いますが、それよりももっと深いところを考えたいと思っています。
表現がかなり難しいところで、誤解を受けやすいのですが、「自然は決して無駄なものを作らない」といわれます。私自身、山の自然にいつも触れていますが、まさにその通りだと実感しています。そして、最も身近な自然は、自分自身の身体であり、人の身体です。これは、まさに自然が作りだしたものです。だとすると、障害も自然が作りだしたもののはずです。障害とは何か、障害というものをどのように受け止めたらよいのか、これを追求するのは人間に課せられた一つの大きな課題だと思います。
先日、立教大学のある学生さんが、全盲のご主人と健常者の奥さんを見て、ご主人の苦労と共に、奥さんの苦労も相当なものがあったのだろうと、これまでのことを推し量っていました。
私は、障害とは、障害を持った人だけのものではなくて、障害を持つ人と関わる人にとっても、大きな問題を提起してくれているのだと思っています。障害を持つ人も、持たない人も、障害というものを通して、それが持つ意味や意義、なぜ障害があるのかなどを考えることこそ、生涯学習ではないかと思います。カルチャースクールで、既存の知識を詰め込むことが生涯学習ではありません。実践を通して、自らの頭で考え抜くことです。(子どもたちにも、そのことを教えていきたいと思っていますが)
以前、視覚障害者のガイドヘルパーの資格を取るために、講習を受けたことがあるのですが、その時、全盲の方が講師でしたが、こう言っていました。「目が見えていた時と見えなくなってからを比較すると、見えなくなってからの方が、圧倒的に人間関係の幅が広がった」と。視覚障害者の人たちの中には、「俺は目さえ見えていれば、人の世話になどならなくて良いのだ」という方がいます。そう思う方の気持ちも十分に分かる面もあるのですが、人の世話になる、人との関わりが増えるということを、どのように受け止めるかで、その人の人生に対する姿勢が大きく変わってくるように思います。難しいかも知れませんが、人との関わりが増えたこと、人の世話になれたことを、うれしいと思えた時、きっと幸せな気持ちが湧いてくるのではないでしょうか? 私も、いつどんな障害を持つかは分かりません。でも、どんな障害を持っても、幸せになりたいと思っています。「幸福」とは、自分が幸福だと思えば幸福になります。幸福だと思えること、うれしいなと思えることを、たくさんたくさん見つけていきたいですね。
以前、ある中学生にこんな話をしたことがあります。「人には、どうして大きいとか小さいとか、頭がよいとか悪いとか、いろんな差があるのか知っているかい?」と聞いたのですが、その子は、思った通り、分からないと言っていました。私はその子に、「人と差があることで、劣等感を持ったり、優越感を持ったりするだろう。そういう気持ちを持つことが大切なことだから、神様は差を付けたんだよ。だって、自分自身が劣等感を持ったことがなければ、劣等感で苦しむ人の気持ちは分からないだろう。だからね、劣等感を持つということは、すごく大切なことなんだよ。優越感も同じさ。神様は、そのことを考えて欲しくて、差を付けているんじゃないだろうか?」と話しました。劣等感を持った子どもに、「あなたには、いくつも良いところがあるのだから、そんなことで悩まなくて良いよ」と言う優しい親御さんは多いと思います。ですが、自分の長所を褒めてもらえたことはうれしいけど、悩まなくて良いと言われている劣等感を持ってしまう自分は、やっぱりダメな人間なんだと思ってしまうのではないでしょうか? 「悩まなくても良い」と言われても、現実に悩む自分がいるのだし、「悩まなくても良い」という言葉自体が、悩んでいる今の子どもを否定していると思うのです。そうではなくて、劣等感を持ったこと自体を、高く評価することが大切だと思います。子どもが劣等感を持ったら、赤飯を炊いてお祝いするくらいでも良いかも知れませんよ。だって、劣等感を持った経験のない子どもは、劣等感を持つ人の気持ちが分からないのだから。人の心の痛みを感じることのできる人間に成長する大切なステップを上がっているところなのではないかと思います。そんな素晴らしい経験をしているのです。
神様は、決して無駄なものを作らないはずです。それを無駄だと思うか、大切なことだと思うかは、全てはその人にかかっているはずですね。
ただ、確かに、障害は不便です。その不便さを受け入れる気持ちに本人自身が切り替えることと、不便さを少しでも解消する社会の支援は欠かせませんが。
障害者という文字の中に含まれる「害」という字が害虫と同じ意味だということで、障碍者とか障がい者という言い方が、少しずつ広がってきているように思います。
しかし、そのように言葉を問題視している人たちのうち、どれだけの方が「障害とは何か」というような自問をしてしているでしょうか? 私には、疑問に感じます。
「障害者」という言葉や定義は、障害者基本法で定義されているとおり、法律で定めた障害を持つ人です。ですから、中には、障害者として認定して欲しくても、認定してもらえない人たちもいます。難病の人たちの中には、まさにそれで苦しんでいる方もいるそうです。
私自身は、言葉については、法律での使用が変わったら、それに従おうと思いますが、それよりももっと深いところを考えたいと思っています。
表現がかなり難しいところで、誤解を受けやすいのですが、「自然は決して無駄なものを作らない」といわれます。私自身、山の自然にいつも触れていますが、まさにその通りだと実感しています。そして、最も身近な自然は、自分自身の身体であり、人の身体です。これは、まさに自然が作りだしたものです。だとすると、障害も自然が作りだしたもののはずです。障害とは何か、障害というものをどのように受け止めたらよいのか、これを追求するのは人間に課せられた一つの大きな課題だと思います。
先日、立教大学のある学生さんが、全盲のご主人と健常者の奥さんを見て、ご主人の苦労と共に、奥さんの苦労も相当なものがあったのだろうと、これまでのことを推し量っていました。
私は、障害とは、障害を持った人だけのものではなくて、障害を持つ人と関わる人にとっても、大きな問題を提起してくれているのだと思っています。障害を持つ人も、持たない人も、障害というものを通して、それが持つ意味や意義、なぜ障害があるのかなどを考えることこそ、生涯学習ではないかと思います。カルチャースクールで、既存の知識を詰め込むことが生涯学習ではありません。実践を通して、自らの頭で考え抜くことです。(子どもたちにも、そのことを教えていきたいと思っていますが)
以前、視覚障害者のガイドヘルパーの資格を取るために、講習を受けたことがあるのですが、その時、全盲の方が講師でしたが、こう言っていました。「目が見えていた時と見えなくなってからを比較すると、見えなくなってからの方が、圧倒的に人間関係の幅が広がった」と。視覚障害者の人たちの中には、「俺は目さえ見えていれば、人の世話になどならなくて良いのだ」という方がいます。そう思う方の気持ちも十分に分かる面もあるのですが、人の世話になる、人との関わりが増えるということを、どのように受け止めるかで、その人の人生に対する姿勢が大きく変わってくるように思います。難しいかも知れませんが、人との関わりが増えたこと、人の世話になれたことを、うれしいと思えた時、きっと幸せな気持ちが湧いてくるのではないでしょうか? 私も、いつどんな障害を持つかは分かりません。でも、どんな障害を持っても、幸せになりたいと思っています。「幸福」とは、自分が幸福だと思えば幸福になります。幸福だと思えること、うれしいなと思えることを、たくさんたくさん見つけていきたいですね。
以前、ある中学生にこんな話をしたことがあります。「人には、どうして大きいとか小さいとか、頭がよいとか悪いとか、いろんな差があるのか知っているかい?」と聞いたのですが、その子は、思った通り、分からないと言っていました。私はその子に、「人と差があることで、劣等感を持ったり、優越感を持ったりするだろう。そういう気持ちを持つことが大切なことだから、神様は差を付けたんだよ。だって、自分自身が劣等感を持ったことがなければ、劣等感で苦しむ人の気持ちは分からないだろう。だからね、劣等感を持つということは、すごく大切なことなんだよ。優越感も同じさ。神様は、そのことを考えて欲しくて、差を付けているんじゃないだろうか?」と話しました。劣等感を持った子どもに、「あなたには、いくつも良いところがあるのだから、そんなことで悩まなくて良いよ」と言う優しい親御さんは多いと思います。ですが、自分の長所を褒めてもらえたことはうれしいけど、悩まなくて良いと言われている劣等感を持ってしまう自分は、やっぱりダメな人間なんだと思ってしまうのではないでしょうか? 「悩まなくても良い」と言われても、現実に悩む自分がいるのだし、「悩まなくても良い」という言葉自体が、悩んでいる今の子どもを否定していると思うのです。そうではなくて、劣等感を持ったこと自体を、高く評価することが大切だと思います。子どもが劣等感を持ったら、赤飯を炊いてお祝いするくらいでも良いかも知れませんよ。だって、劣等感を持った経験のない子どもは、劣等感を持つ人の気持ちが分からないのだから。人の心の痛みを感じることのできる人間に成長する大切なステップを上がっているところなのではないかと思います。そんな素晴らしい経験をしているのです。
神様は、決して無駄なものを作らないはずです。それを無駄だと思うか、大切なことだと思うかは、全てはその人にかかっているはずですね。
ただ、確かに、障害は不便です。その不便さを受け入れる気持ちに本人自身が切り替えることと、不便さを少しでも解消する社会の支援は欠かせませんが。
Posted by アルプ at 19:09│Comments(0)
│障害者関係
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