障害がなかったら
今、以前読んだ河合隼雄さんの「人の心はどこまでわかるか」という本を読み返しています。
内容は、全くといって良いほど忘れていました。
ただ、河合さんの話は、とても分かりやすく、私自身の考え方ととてもしっくり合うので、うんうんと納得することばかりです。
まだ、全部読み終えていないのですが、86ページに「治ることの悲しさ、つらさもある」というタイトルで自分の足のにおいを気にしていた人が入院による治療によって治り、めでたく会社に復帰することになったことが書かれています。
家族も大喜びで、復帰最初の出社の日は、家で赤飯を炊いて待っていました。ところがその人は、家に帰らず、裏山で首を吊って自殺していたそうです。
彼の本当の苦しみは、足のにおいなどではなく、会社の中にあったんですね。足のにおいに苦しむことが理由になって、苦しい会社に行かないことで、自分の身を守っていたのです。その理由がなくなってしまい、しかも家族は大喜びなので、今更、私が苦しんでいる理由は違いますとは言えなくなってしまい、死ぬ以外に道がないと思ってしまったのですね。
これは、医師の誤診なのだと思いますが、人の心を見つめることは本当に難しいことですね。よかれと思ってしたことが完全に徒になってしまった事例ですね。
私は、これまで多くの視覚障害者の人たちと付き合ってきましたが、これに近いことは頭に入れていました。
以前、視覚障害者のガイドヘルパーの講習を受けたとき、講師として話をしてくれた全盲の方は、障害を持つ前と持ってからでは、人間関係の幅が大きく変わり、障害を持ってからは比較にならないほど、多くの人と関わりを持つようになったと言っていました。
人は、誰もが、障害がない方が幸せだと思っています。私も、基本的にはその通りだと思いますし、自分が自由にできる範囲が広がった方が、幸せに近づけると思っています。
ただし、必ずしもそうとは言い切れない人もいるのです。
生まれつき障害があることで、親ははれ物に触るように我が子を育て、その子はわがままを言ったり自己主張の強い人になります。障害があるのだから、やってもらって当然と思う人もいます。
人間的には好きになれなくても、障害があることで多くの人が関わるようになります。わがままを言っても、誰かが聞いてくれます。
ところが、もし医療技術の進歩で、その人の障害がなくなり、目が見えるようになったら、どうでしょうか? 最初は、みんな良かったねと喜んでくれます。しかし、もう面倒を見なくても良くなったということで、どんどん人が離れていってしまいます。
その人が、相手の人を大切にする人なら、障害がなくなってもその人間性に惹かれてつきあいを継続すると思いますが、わがままだったり自己主張が強いと、これ幸いにと離れていってしまいます。
障害がなくなったからといって人の性格はそう簡単には変わりません。なぜ、みんな自分を避けるのかが分からず、孤独感に苛まれ、世の中を恨むかも知れません。
私は、今まで、障害があろうとなかろうと誰でも受け入れながらも、その人が抱える問題をしっかりと心に留めて、いつか機会があったら、伝えたいと思ってきました。これからも、それは変わりませんが、伝えることは非常に難しく、わがままをそのまま受け入れる人もいますから、悪者になる覚悟も必要です。
河合さんのこの本では、「父性」ということになりますが、「母性」と「父性」の両方を持てるようにがんばって生きていきたいなと思います。がんばんべ~!
関連記事